アベノミクスが始まって間もなく8年が経過する。デフレと低成長。日本経済はいまだにこれらの呪縛から抜け出せないでいるが、その源流をたどると1997年に行き着く。この年、日本は金融危機に襲われて一気に経済が収縮した。それからちょうど20年たった。

今日のデフレの原因を1997年の消費税3%から5%への引き上げに求める向きもあるなか、昨今、消費減税5%が経済再活性に不可欠との声が上がる。しかし物価の尺度を示すGDPデフレーターは、1997年の金融危機以降マイナス基調が続いている。

ここでは、1997年の金融危機を振り返ることが目的であるので、経済への影響は別稿で述べるが、下記のように1997年を基点に現金給与総額の下降が始まっていることは事実である。

果たして消費減税5%は、的を得ていると云えるだろうか。
本稿はそのような論考にひとつの歴史的事実を示すことを目的としたものである。
以下に、当時1997年に起きた金融危機の状況を、摘示しておくので、 ご清覧願えればと思う。

金融危機から20年:その教訓は何か

1997年11月26日―日本経済の「最も危ない日」

「大変です。各地の銀行の前に列ができています」

1997年11月26日の午前、日銀から大蔵省(現財務省)に電話が入った。関係者の脳裏を「恐慌」の二文字がかすめる。この日は早朝から大蔵省で三塚博蔵相の記者会見があった。宮城県を地盤とする徳陽シティ銀行が経営破綻したという会見だった。

「預金者の全額保護や銀行間取引の安全確保など、金融システムの安定を最大限確保している」「これ以上波及しないように最善を尽くす」

このころ政府は、銀行が破綻した場合、一定額以上の預金引き出しを保証しない「ペイオフ」を直ちには発動しない方針だった。同時に会見した松下康雄日銀総裁はこの点を強調し、「(ペイオフ)前倒し実施の考えはない」と述べ、落ち着いた行動を呼び掛けた。

これより前、同じ11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券といった名だたる金融機関が相次いで破綻していた。それに比べると徳陽シティ銀行は規模からいけばかなり小さい。金融機関の破綻には細心の注意を払わねばならなかったが、「破綻慣れ」していた大蔵省、日銀、メディアは虚を突かれた形となった。

顧客が預金引き出しに並んだのは、そのころ週刊誌などで「危ない」と名指しされていた銀行が中心だった。大蔵省と日銀は急きょ協議。とりあえず、店舗の外に客を並ばせないよう全国の財務局などを通じて指示した。

街頭に客があふれれば目立つ。それを見た人々の不安心理にも火がつく。

「整理券を配れ、店内の応接室を使え、などと事細かに銀行に指示した記憶がある」

ある当局者はこう回顧する。

メディアも迷った。既に多くの新聞・通信社・テレビ局は全国の銀行支店前に列ができていることをつかんでいた。しかし、それを報道すれば、国民の不安をあおることになりかねない。市場で相場も乱高下する。迷った末に、全てのメディアが報道を自粛した。談合があったわけでも、当局から要請があったわけでもない。各社が独自の判断で一行も報じないことを決めたのだった。

午後に入ると、事態は沈静化に向かう。夕方になると、列をなしていた銀行から潮が引くように預金者が去っていったという報告が大蔵省や日銀に上げられた。

日本は27年の昭和金融恐慌を経験している。国会での蔵相発言が引き金になり、全国各地の銀行に預金者が現金引き出しに殺到。押すな押すなの光景は、写真に残って後世に伝えられている。

戦後の日本経済はニクソン・ショックや石油危機など数々のピンチに遭遇したが、97年11月26日は一歩間違えれば日本経済が沈没した「最も危ない日」だったと言える。では、なぜ事態はそこまでこじれたのか。

バブル経済の生成と崩壊

このころ銀行の経営危機は、不良債権問題によるものが大半だった。そして、不良債権問題を理解するためには、バブル生成と崩壊の歴史を知る必要がある。

1985年9月、米ニューヨークのプラザホテルで結ばれたのが有名な「プラザ合意」。当時、経常収支と財政の「双子の赤字」に苦しんでいた米国が為替調整を通じて事態を打開しようとしたのだ。この合意は円高への転換を意味した。当時1ドル=240円程度だった円相場は急激に円高方向に振れ、1年後には150円前後に上昇した。

この円高により、輸出産業を中心にして日本経済はピンチに陥る。このため、景気対策の一環として日銀は、86年から87年にかけて5回もの金融緩和を実施した。一方、87年ごろから地価が上昇し始め、88~90年と大都市圏から地方まで地価が高騰し続けた。

地価につられて株価もアップ。89年12月末には日経平均が史上最高の3万8900円を記録した。日本経済は円高不況から脱し、好景気に沸いていた。振り返ってみると、このころがバブルの絶頂期だった。

しかし、事態は90年から暗転する。地価の下落が始まり大蔵省による土地融資への規制がとどめを刺した。地価も株価も、右肩下がりに転じる。バブル経済が弾けたのだ。土地を担保に融資をしていた銀行は地価下落で担保割れが発生、財テクで運用していた企業経営は一気に傾いた。その結果、銀行は回収できないか、回収が難しい不良債権を抱え込むことになった。

住専処理で公的資金にアレルギー

1990年代に日本を襲った不良債権問題による金融機関の破綻は、まず体力の弱い小さな金融機関から始まった。

この当時、銀行の健全経営は信用の源泉であるとして、大蔵省・日銀の強力な行政指導の下で採用されていたのは「護送船団方式」。その根底には「銀行はつぶれない」という神話があった。経営が怪しくなった中小金融機関は、大銀行や近隣の金融機関に救済合併してもらうというのがお決まりのパターンだった。

銀行の経営の根拠法規である銀行法により、大蔵省が金融機関に対して初めて業務改善命令を出したのは88年のことだ。

「銀行法を発動したら、その金融機関は危ないということになる。そうしたら信用不安につながるかもしれない。そんな事態を避ける意味でも銀行法の発動には慎重だった」

当時大蔵省銀行局に勤務していた官僚は、こう振り返る。

しかし、不良債権問題は思わぬところから国会の与野党対決案件になる。それは、銀行本体の問題ではない。住宅金融専門会社、いわゆる住専が火種だった。住専は銀行などからの借り入れを原資に、個人向け住宅ローンの融資を主な業務としていた企業。業容拡大の一環として法人向けの不動産関連融資も拡大していった。融資に当たって厳しい審査をせざるを得ない銀行は、住専を通じて甘い融資を増やしていった側面もあった。

しかし、バブル崩壊でこれが不良債権化する。住専は預金を預かる金融機関ではないので、本来であれば単純な破綻で処理できるはずなのだが、この中に農協系が集めた資金が貸し込まれていたことが事態をややこしくした。この当時、日本の政治シーンで農業系議員の力は非常に強かった。彼らは農協系金融に影響が出るのを恐れ、95年12月に損失を埋めるため、予算から6850億円の公的資金を導入することを政府に認めさせた。

これには猛烈な反発が起こる。新聞各紙は一斉に「こんな住専処理は許さない」(朝日新聞)、「ルール逸脱した住専の政治決着」(日本経済新聞)といった見出しの社説を展開した。金融システムの中核を担う銀行などの不良債権が膨張し、危機は目前に迫っているにもかかわらず、これ以降大蔵省は公的資金の議論を封じられた。

公的資金の発動ができなくなった大蔵省は、危機的状況を迎えていた日本債券信用銀行などを救済するため、同業他社の出資や融資で危機を乗り切ろうとした。これは「奉加帳方式」と呼ばれ、当時の流行語になったほどだ。

97年3月には窮地に陥っていた北海道拓殖銀行を北海道銀行に救済合併させることで関係者の合意を取り付け、記者会見で発表までした。しかし、この合併話は破談になり、三洋証券、山一証券に挟まれるように北海道拓殖銀行は同年11月に破綻する。その直後に発生したのが同じ月の26日に起きた「取り付け騒ぎ」だったのだ。

この危機に直面して大蔵省は、公的資金投入の法整備に着手する。住専問題で懲りた国会が公的資金にアレルギーを持っているからといって、待っている時間的な余裕はなかった。日本経済が回復不能なダメージを被る前に、税金を使ってでも金融秩序を守る必要があるとの判断がようやく下されたのだ。

バブル崩壊と金融界の主な出来事

迅速対応できず深い傷

その後、1998年には日本長期信用銀行、日本債権信用銀行と破綻が続くのだが、97年に始まった金融危機は何を教訓として残したのか。

ある財務省OBはこう話す。

「それまで封じ込めていた破綻が現実のものとなってしまった。特に11月初めの三洋証券の破綻で、短期の資金をやり取りするコール市場で焦げ付きが発生し、一気に信用収縮が進んだことが痛かった。経済を成長させながら救済合併を繰り返すことによってソフトランディングを目指した方法は間違っていなかったと思うが、97年半ばをピークに景気は下降局面に入ってしまった。金融のハードランディングがいかに深刻な傷を経済に残すかの実例を、日本は示したわけだ」

一方、公的資金投入のタイミングが遅れたとする議論は根強い。日本長期信用銀行に勤務した経験のある専修大学の田中隆之教授は、専門家の視点から「米国が2008年(リーマン・ショック後の)世界金融危機で対応したように、バブル崩壊後、速やかに銀行に資本注入すべきだった」と指摘する。バナー写真:押し掛けた顧客で長蛇の列ができた山一証券新宿支店前(東京・新宿)=1997年11月25日(時事)


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