「勝ち組」と「負け組」
今の時代は「勝ち組」と「負け組」がはっきり分かれる「分断社会」と言われています。
中間層の増大から「一億総中流」と言われた昭和の高度経済成長期からすでに半世紀。「平成」「令和」へと時代が変わり社会の余裕が失われると同時に、世の中の仕組みも次第に曖昧さを嫌うようになりつつあるようです。
野村総合研究所が4年前に英オックスフォード大と共同研究した試算によると、2030年ごろには日本の労働人口の約半数(49%)が人工知能(AI)やロボットに代替される可能性があるということです。
生産性の上がらない低賃金の仕事が労働市場から次々と失われ、(汗水流す)「労働」というものが担ってきた「所得を再配分する」という機能が衰えていくことが予想されます。
それでは、社会の流れについて行けず生産性を上げられないこうした人々の生活を、一体誰がどうやって支えていくのか。
引き続き、精神科医で作家の熊代亨(くましろ・とおる)氏が8月5日の自身のブログに掲載した「『俺らが生きづらい社会』は『あいつらが生きやすい社会』」と題する一文を追っていきたいと思います。
技術の進歩についていけない人々は今日の情報環境のなかで何重にも搾取され、何重にも損をしていると熊代氏はこの論考に綴っています。
彼らはアマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれない。でも、それもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度の分だけ、搾取されたり損をしたりしているはずだということです。
進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。誰もが効率的にオペレーションをこなし高度化していく情報環境のもとでは、ぴったりと適応できる人々はますます大きな便益を享受し続けると氏は言います。
しかし、それについていけない(少なくない)人々はますます生きづらくなり疎外されていく。(例えば「大人の発達障害」という概念によって援助される人も増えてはいるけれども)「医療」や「福祉」には、少なくとも今のところこの図式を解消するほどの力は無いというのが現在の状況に対する熊代氏の認識です。
だから、この進歩に対する肌感覚は大きく2つに分かれると氏は続けます。
それは、「世の中はどんどん悪くなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん良くなっている」と感じる人々。あるいは「世の中はどんどん生きづらくなっている」と感じる人々と、「世の中はどんどん生きやすくなっている」と感じる人々だということです。
清潔な身なりと規則正しい生活を当然のものとし、高度な情報リテラシーと金融リテラシーを持ちグローバルに開かれた生活をしている人々にとって、「えっ? なに? 世の中便利になってチャンスもどんどん増えてるでしょ?」と(自分を基準に)考えていれば、葛藤も抱えずに済むし罪悪感も覚えないはずだと氏は言います。
しかし、進歩から置き去りにされた人々には、世の中がどんどん良くなっていると感じる機会は少ないのではないか。コンビニや警察窓口では昭和時代より丁寧に対応してもらえるかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料ガチャを回させてもらえるかもしれないけれど、生活が上向いている実感はないだろうというのが氏の指摘するところです。
テクノロジーや文化という点では、私達は間違いなく進歩し続けている。だが、こうした進歩によって専ら便益やチャンスを獲得している人もいれば、進歩によって疎外されている人、進歩に置いていかれている人もいると氏は言います。
進歩は私たちをますます便利に、快適に、効率的にしていくだろう。しかし、その便利さ、快適さ、効率性に私たち自身がどこまでついていけるかについては、常に懸念をもって接する必要があるというのが氏の見解です。
テクノロジーは人類を幸せにすると無邪気に考えていた時代は、どうやら過去のものになりつつあるようです。
経済発展やイノベーションを起こすための努力を惜しまない人類の行き着く先に待つのは、果たして皆が幸福を享受できる「ユートピア」なのか。それとも一部の才能ある人間がその他大勢を支配する「ディストピア」なのか。
「社会の進歩は必ず皆の味方をしてくれるという考えに、今時一体どれぐらいの割合の人が同意できるものだろう?少なくとも私には、それが条件付きのもののように思われてならない」と結ばれた熊代氏の論考を、興味深く読んだところです。